『青の帰り道』再上映が大ヒット/刈谷日劇・劇場支配人レポート

『新聞記者』大ヒットの裏側で、5月に始まった同じく藤井道人監督が手がけた『青の帰り道』の再上映が動員1万人を突破しました。藤井監督自ら劇場に営業してスタートした東京再上映。全国各地からリクエストが殺到し、TOHOシネマズが運営する「ドリパス」のイベント上映を含めて上映館は25館にも拡大。  新潟県の市民映画館 シネ・ウインドでは、井上支配人の働きかけで作品の応援団が生まれ、劇場と連携して手作りの装飾やイベント企画が行われました。  『青の帰り道』の地方ムーブメントは一体どのように生まれたのでしょうか。  愛知県の刈谷日劇は2018年12月に『青の帰り道』が公開されてから3ヶ月経って、3月に上映に踏み切りました。当時刈谷日劇でしか上映されていなかったこと、ソフト化やネット配信の見通しが付いていなかったこと、横浜流星さんの人気ドラマの終了時期にも重なり、全国から沢山の人が駆けつけ、藤井道人監督自ら先陣を切って仕掛けた、5月の東京再上映に弾みをつけた劇場となりました。また『青の帰り道』のヒットは、その後の刈谷日劇の編成に影響を与えたといいます。  『青の帰り道』が東京再上映を成功させ、全国を巡った後の8月には、再上映を決めます。『新聞記者』『デイアンドナイト』『青の帰り道』の3本を揃え藤井道人監督の特集上映を組み、『青の帰り道』『デイアンドナイト』を手掛ける伊藤主税プロデューサーを招いてトークイベントを開催。ミニシアターの自由に編成できる強みを生かして、お客さんとコミュニケーションを取りながら、タイミングをはかって再上映の決断や特集を企画し、盛り上げていきました。 ■平成・令和を跨ぐ青春映画の金字塔『青の帰り道』 「『ローマの休日』ほどの重要作品になった」 愛知・刈谷日劇/堀部昭広 支配人 『広島国際映画祭2019』にて上映 『知多半島映画祭』にて上映 『くにたち映画館2019』にて上映 『ええじゃないかとよはし映画祭2019』にて上映 『さぬき映画祭2019』にて上映 今年で開館65年をむかえた、愛知県刈谷市にある映画館「刈谷日劇」。 今回の執筆を担当する刈谷日劇の館主の堀部は、今年初めより刈谷日劇の館主に就任し、番組編成も担当しています。 今回は、刈谷日劇で上映を決めてから、再上映に至るまでの経緯、また『青の帰り道』が当館にとって、どう特別な作品なのかというお話をしようと思います。 ■愛知県大府市出身の清水くるみさんを応援 刈谷日劇で『青の帰り道』の上映が始まったのが3月29日、正月明けから続いた大ヒット作『ボヘミアンラプソディ』と入れ替えての上映でした。 当館での上映を決めたのが、その2週間前。 かなり急な決定で、配給会社さんに「告知期間が短いですが、大丈夫ですか」と少し心配されながら、初日を迎えました。このように直前に上映作品を決めることは、通常の映画館の番組編成ではあまり行いません。上映を決めた3月は、多くのシネコンさんでの上映も一巡し、当館のような地方での上映も終わりかけていた頃でした。 そういう時期に、あえて上映を決めたのは、当館の隣の市、愛知県大府市出身の清水くるみさんが出演していたからです。地方の映画館として、同郷の映画に関わる人を応援するのは、当館がやれることのひとつだと思っているからです。 また、今年初めの横浜流星くんのドラマのヒットがあったことも決定するにあたっての肯定的な要因でした。 ■“家業の映画館” 初めての番組編成 このような流れで上映を決めた『青の帰り道』は、著者にとって、初めて番組編成を任されて選んだ初期の作品として、特別な思いがある作品でした。 最初の1週目は、ぽつぽつとお客様が入る感じでしたが、2週目以降は平日にもコンスタントにお客様が来てくれるようになりました。 鑑賞されるお客様と挨拶がてらにお話をすると、県外から来てくださる人がかなりいることがわかりました。平日にも遠くから足を運んでいただきましたが、週末にもなるとその傾向は目に見えて増えていったのです。 通常、1作品の上映は2週間ですが、興行成績がいいと延長します。『青の帰り道』を数回延長した頃、前の館主でもあり社長でもある筆者の父が「これはいける、このままゴールデンウィークまで確実に上映しよう」と言ってきました。 ここでお気づきになったとは思いますが、筆者は“家業の映画館” を父から引き継いだ3代目という立場なのです。 話は少しだけそれますが、いまの映画館業界では “家業の映画館” を継承することはかなり稀なケースだと思います。 映画産業は昭和中期に全盛期を迎え、そこから緩かに下降気味となりました。 平成初期に登場したシネコンにより、映画人口は一旦回復しますが、シネコンの台頭とその後のさらなる映画人口の減少により、個人経営の小さな「街の映画館」はどんどんと閉館に追い込まれていきました。 そのような中、当館も利益だけを追求するのであれば、閉館するのが合理的な選択だっかもしれません。 それでも、当館に楽しみに映画を観にきて頂けるお客様がいることを知っていたので、筆者はできるだけがんばってみようと引き継ぐことを決めました。 ここで当館の歴史を少しだけ。 刈谷日劇のスタートは昭和29年(1954年)5月のゴールデンウィークに『ローマの休日』を上映したのが始まりです。 筆者の祖父が洋画ロードショー専門、刈谷市内で3番目の映画館として、開業させました。 ちょうど映画館業界が「ゴールデンウィーク」という新しい和製英語を使い出して、世間にこの言葉が浸透していった時代です。 そこから平成中期まで洋画専門の劇場でしたが、映画業界編成の流れがやってきて、当館も大きく変化をせまられることとなりました。 地方の個人経営の映画館の多くが閉館してく中で、当館は単館系のミニシアターとして営業を継続していくことで生き残りを図りました。 1987年の刈谷日劇・外観 当時の創業者(私の祖父) ■平成から令和へ『青の帰り道』とともにむかえた刈谷日劇 話は今年の春に戻ります。 長年、地方の映画館の館主として、興行師(あえてこの言葉を使います)として劇場経営や多くのヒット作に関わっていた筆者の父が『青の帰り道』の数字を見て、「これはなかなか無いケースだぞ、しり上りで動員が増えていくのは久しぶりに見た」と興奮気味に言っていました。 筆者も “家業の映画館”を継いだのは今年の2月、まだ右も左もわからない状況の中、この尻上がりの数字をみて「やったぞ!」とワクワクしてきたのを覚えています。 その後、東京の渋谷で再上映があることを聞いたので、地方で成功して渋谷へバトンタッチすることが、当館ができる『青の帰り道』という作品への感謝の印だとの思うようになりました。 SNSなどでお客様と交流したり、情報を拡散するなど新たな試みも始めました。 作品のファン・まぁさんによる手作りの「青の帰り道ボード」左部分はモザイクアートになっている …

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